丁寧な生活

例えば1メートル先のモノを取るときに、体を伸ばすのが子供、歩み寄るのが大人だと聞いた。
ペットボトルのお茶をラッパ飲みするのもいいが、コップに注ぐ余裕もほしい。
そろそろ落ち着いた大人になって、丁寧な生活がしたい。

ところで調理に使ったフライパンをお皿にすると便利である。
保温性に優れ、新たなお皿を洗う時間と水を節約できる。
のみならず菜箸でいただけばコンロから移動する必要すらない。
ただ、丁寧な生活とは言えない気がする。
そもそも「お皿を余分に洗わなくて済む”利便性”」という表現が、本質的に成り立つのだろうか。

こういうときは理屈でなく、感覚に従ったほうが早い。
即ち「落ち着いた大人が丁寧な生活をするときの食事」を想像するに、立ち食いはあり得ない。
お皿に盛りつけた料理を座って食べるだろう。
フライパンやお皿を洗うときに「浮かせることもできた水道代」のことは考えないだろう。
丁寧な生活は贅沢なのだ。

では、贅沢な生活が丁寧かというと、そうではない。
お金と幸せが結びつかないように、豪奢な生活を追い求めては本末転倒である。
ともすれば当たり前に過ぎていく日々の営みを慈しむことこそが丁寧な生活であり、豊かな生活とも言えよう。

しかし先に挙げた通り、日常のあれこれは、瑣末なものとなおざりにしがちである。
なぜなら切迫という名の妄念(本当に忙しく時間がないという状態は、冷静になればなるほど少ないと気付く)が次から次へやってくるから。

よく噛むとか、しっかり磨くとか、ちゃんと立つとか、意識する。
自分を肯定するために、少しくらい努力していい。

なんだかいいこと言ったような気がして満足◎