キャッチコピー抄

大量生産大量消費の時代にあって生産コストを度外視しながらも流通パターンを見直すことで優れたコストパフォーマンスを実現したただ流行を追い求めるのではなく古き良き時代の懐古主義に留まらない普遍的なテーマに立ち返り利用者に寄り添いながらひとつひとつ丁寧にこだわってひとりの職人が全工程に携わることで工業製品では味わえないハンドメイドならではのぬくもりが訴える表情は使い込むことでふたつとないエイジングを経る一生モノにふさわしい貫録をポテンシャルとして背景に秘めている次回入荷未定の食べて痩せる自分へのご褒美です。

丁寧な生活

例えば1メートル先のモノを取るときに、体を伸ばすのが子供、歩み寄るのが大人だと聞いた。
ペットボトルのお茶をラッパ飲みするのもいいが、コップに注ぐ余裕もほしい。
そろそろ落ち着いた大人になって、丁寧な生活がしたい。

ところで調理に使ったフライパンをお皿にすると便利である。
保温性に優れ、新たなお皿を洗う時間と水を節約できる。
のみならず菜箸でいただけばコンロから移動する必要すらない。
ただ、丁寧な生活とは言えない気がする。
そもそも「お皿を余分に洗わなくて済む”利便性”」という表現が、本質的に成り立つのだろうか。

こういうときは理屈でなく、感覚に従ったほうが早い。
即ち「落ち着いた大人が丁寧な生活をするときの食事」を想像するに、立ち食いはあり得ない。
お皿に盛りつけた料理を座って食べるだろう。
フライパンやお皿を洗うときに「浮かせることもできた水道代」のことは考えないだろう。
丁寧な生活は贅沢なのだ。

では、贅沢な生活が丁寧かというと、そうではない。
お金と幸せが結びつかないように、豪奢な生活を追い求めては本末転倒である。
ともすれば当たり前に過ぎていく日々の営みを慈しむことこそが丁寧な生活であり、豊かな生活とも言えよう。

しかし先に挙げた通り、日常のあれこれは、瑣末なものとなおざりにしがちである。
なぜなら切迫という名の妄念(本当に忙しく時間がないという状態は、冷静になればなるほど少ないと気付く)が次から次へやってくるから。

よく噛むとか、しっかり磨くとか、ちゃんと立つとか、意識する。
自分を肯定するために、少しくらい努力していい。

なんだかいいこと言ったような気がして満足◎

エスカレーター類

忘年会にお呼ばれし、せっかくだからと近隣のビルをまわった。そんな冬の夜の話。

ハービス・エントにはハイブラのテナントが多かった。
カーペットが敷かれた廊下はシャンパンゴールドの光に照らされ、重厚な雰囲気がテナントの価値を高めている。

一方、エスカレーター周りの照明は暗く、ここではエスカレーター本体に備えられたライトだけが保安の頼りである。これは意匠も兼ね備えているのだろう。人間がひとり通る幅しか持たないエスカレーターにおいて、追い越しなどあろうはずがない。ライト付きのエスカレーターはゆっくり動く。

こんな場所でコートからウィンザーノットを覗かせて闊歩していると、勘違いをしそうになる。
即ち「おれはこういった場にふさわしい人間なのだ」と。
一張羅のストレートチップに目をやり、ソファにくつろぐ。
すぐ目の前にある高級宝飾品店でプレゼント用のリングを物色することもやぶさかでない。

頃合いを見計らって店を出ると、いい時間である。
大阪駅前ビルの店へ急がなければならぬ。

件のエスカレーターを使って地下道へ潜り、数百メートルも歩かないうちに天井が低くなる。やがて年季の入った蛍光灯がタイルを照らし、目のホワイトバランスが狂う。

レモンイエローの光は、立ち飲み酒屋も激安DVD店も、地上へ上がるエスカレーターも、分け隔てなく照らしている。

夢と現実

夢の中で、ぼくはインド旅行を楽しんだ。
そこには物乞いも、押し売りも、すりも、詐欺師もいなかった。安宿ではあるけれど、ちゃんとシャワーが出て、乾いたシーツで眠ることができる。朝早くに起きて、ガンジス河で沐浴をする。朝日を浴びながら合掌する。目に映る喧騒のわりに、辺りは静かである。岸では人々が洗濯をしたり死体を焼いたりしているのが見える。それが当たり前のように思える。沐浴を済ませ、遅めの朝食を摂る。シナモンのほのかに効いたチャイが、体に甘く優しい。夢の中で、ぼくはオーストラリアへ旅行した。
往復3ヶ月有効の格安チケットを買って訪れた先は、メルボルンとゴールドコースト。メルボルンで友人に会い、ゴールドコーストで水遊びをする。湿度が低く乾燥しているため、夏でも過ごしやすい。ビーチサンダルを持ってきてよかったと思う。オーストラリアにいる間、ぼくは共有キッチン付きの部屋を借りて、大型スーパーで買い物をする。日本の調味料を使った料理は、それがたとえ簡素なものでも、パーティで喜ばれるのだ。

目が覚めて思う。
ぼくが夢で見たインドは本当のインドじゃない。くさくて、うるさくて、誰も信用できない。きっとガンジス河で下痢になる。チャイひとつ飲むにもぼったくられる。オーストラリアでは、思っていたより英語が通じなくて困る。サングラスが邪魔でカメラを構えにくい。飛行機が時間通りに飛ばないため、間違えたのかと冷や汗をかくだろう。

ところで、全然関係ないけれど、美少女戦士セーラームーンはどんな戦い方をしていたっけ? 妹と一緒にテレビを観た記憶はあるのだが、どのような手段で悪役を倒したのか忘れてしまった。まさか空手やこん棒で叩きのめすような真似はすまい。……と、さる会話の途中で友だちに聞いたら「本当に全然関係ないね」と驚かれた。
現実とはこういうものだ。

ゲーテにさよならを

合同作品展の席で僕が暇を持てあまし、小説を読んでいたときのことだ。出展仲間に声をかけられた。

「何を読んでいるんですか?」
「ファウストです」

……。
僕は普段、ゲーテを読まない。かつて断捨離を敢行した際に、まだ読んでいないという理由だけで捨てなかった本がファウストだった。購入から数年経って、まだ読んでいないのである。そういえば『若きウェルテルの悩み』も苦痛でしかなかった。

またある日、僕がイヤフォンで音楽を聴いていると、

「何を聴いているんですか?」←さっきと同じひと
「モーツァルトです」

……。
これはまずい。

先日も「最近ワインがうまい」と書いたばかりに、一部の方が、今泉はワインに詳しいと誤解をしてしまった。ボトルでも千円を超える新酒なら、僕の舌には何だってうまいのだ。

仮にこれらのタイミングが重なって、僕がモーツァルトを聴きながらファウストを読み、ワイングラスを傾けている姿を見る人がいたら、相当な勘違いをするか、相当な勘違い野郎だと思うかどちらかだろう。どちらもいやだ、と僕の自尊心は言う。

さて臆病な自尊心と尊大な羞恥心が頑張った結果、本エントリで親しみやすい今泉(当社比)を展開すればいいという結論に達した。最近ハマっている音楽とか自転車でどこへ行ったとか、等身大の日常を書けばそれでいい。

ところがである。

最近なんとクラシックにハマっているのだ。音楽室に飾られた髪の毛フサフサの肖像画たちが、僕の心を掴んで放さない。特にバッハとモーツァルト。あんたらホントに人間か? 旋律は、次へ続く音が常に最上級の選択によって形成されているかのよう。その音楽に身をゆだねる心地よさといったら!

その遅すぎるクラシック入門が「何を聴いているんですか?」と聞かれた1週間前だったのだ。2週間前に同じ質問をされていたら「Perfumeのチョコレイト・ディスコです」と答えたのに。

自転車も、この夏に低血糖症に悩まされて以来、ほとんど乗っていない。昨日、歯医者の定期検診にロードを駆るべくタイヤの空気圧を指で測ったら、シクロクロスかというくらい凹んだ。これはあかんやろ……。

背伸びをする必要はない。といって卑屈になる必要もない。それならば、ありのままでいい。

『ありのまま』はしかし、シンプルだから難しい。あれこれ余計なことを考えなければよいが、余計なことを考える姿もまた『ありのまま』なのだ。
めんどうくさいが、見栄でも伊達でも、自分に正直がいい。