ひもについて

私は「ひも」が苦手だ。
「女のひも」になって生きたくないなどという意味ではなく(そうして生きたいわけでもないが)、靴ひもや、ロープや、糸や、イヤフォンコードや、電源コードや、とにかくああいった手合いの「ひも」が苦手なのである。からまるし、ほどけない。

「ひも」に対して特定の感情を抱いたのは小学生のころだと思う。靴ひもの結びが下手で、実を言うと未だに綺麗に結べない。かた結びなら、オートマティックに完成するのだが。

奈良県サイクリング協会のイベント時、会議で使うような長机に協会の旗を結ぶ作業を手伝ったことがある。長机と旗はそれぞれ二つあって、その上辺二箇所、つまり合計四箇所に「ひも」を使って長机の脚と旗を結ぶのだ。

二台並んだ長机の左側から私が、反対側から他のスタッフが「ひも」を結んでいく。ところが私が結んだ「ひも」は、結んだハナからするする落ちていくではないか。何度か繰り返しているうちに、反対側から結んできた人がもう三箇所を結び終えて、私に告げた。

「……まだやってるの?」

こんな人間がよく自転車店でアルバイトをしていたものだと思うが(雇ったほうも驚いたはずだ)、それでも私の人生において「ひも」は大きなウェイトを占めていない。靴ひもがほどけたときは結びなおせばいいし、イヤフォンのコードがからまったときでも、時間をかけてゆっくりほどけばいい。急ぐ必要はない。

そんな、ウェイトを占めていない「ひも」でも、ごく稀に時間的観念を迫ることがある。私と、私以外の人間が関わったときがそうだ。奈良県サイクリング協会のイベント時のように。※爾来、協会イベントで「ひも」を結ぶ必要があるときは、私は他の作業に逃げていた

実はそれがつい先日の話で、さすがに堪えたものだから、日記のつもりでその情景を書こうと思った。前置きが長くなってしまった。

先日、日本人で初めて自転車世界一周を成した冒険家、池本元光さんに再会した(池本さんについては別のエントリに委ね、ここではあくまで「ひも」について話をする。私の感覚が新鮮なうちに)。

あるイベントが終わり、片付けを手伝おうと幌を手にしてはっとした。幌には「ひも」がついている。池本さんは「(片付けは)適当でいいよ」と声をかけてくださったのに、私は「絡まると面倒じゃないですか。束ねておきますよ」と格好つけて言ってしまった。

私が「ひも」を束ねようと手に取ると、糸はまるで魔法のように絡まり、たちどころに「かた結び」がいくつかできた。なぜだ。しかし慌ててはいけない。心を落ち着かせながら、自分で結んだ「ひも」をほどいていく。池本さんはてきぱきと他の部品を整理していく。

その場にいたのは池本さんと私だけではなかった。他にも手伝っている人がいて、何人かは私が自分で結んだ「ひも」をほどく作業を横目に見ていたのだろう、大体の整理が終わったころに、声をかけられた。

「まだやってるんですか?」

フラッシュバックというのだろうか、奈良県サイクリング協会のあの日が突然思い出された。驚きと呆れと哀れみが3:2:1の割合で混ざったこの表情に、私は何度となく出くわす。それは大抵「ひも」がらみである。そして、その「まだやってるんですか?」は、正確には「なぜ、まだやってるんですか」なのだ。大人同士の礼儀が「なぜ」を省く。思わず出てしまう言葉に精いっぱいブレーキをかけて、ようやく省略された「なぜ」なのだ。

聞いた人を責めるのではない。
「なぜ」と聞いてほしかったのでもない。
私が「ひも」に対して真剣に向き合ってこなかった、いわば自業自得なのだ。

池本さんは待ってくださった。しばらくして、私は私が絡めた「ひも」をほどき終え、まとめて束にした。

例の疑問文で少々ダメージを負ったものの、私の人生における「ひも」のウェイトに変化はないと思っている。今度の事件が自業自得だったとしても、だ。「ひも」と私の確執は、確執それ自体によって私の人生から一歩遠ざかっているのだから、差し引きゼロと考えるわけだ。事の本質は「ひも」に関する技術や経験ではなく、私の不器用さにあると思っている。私は、自分の不器用が最も顕著に表れるのが「ひも」であり、次点で「ボール(球)」だと認識している。

ここで「ひも」の技術習得は抜本的な解決に至らないという結論をもって本エントリを終了するが、ついでに何年も前から気になっていた事柄を併記しておく。それは高倉健の有名な台詞「自分、不器用ですから」について。なぜか印象に残っている。

演出家(そのCMの情景は忘れてしまったけれど)はおそらく「不器用にしか生きられない男が、不器用なりに正直に不器用を告白するシーン」を渋くしたかったのだろう。高倉健ならそれができる。しかし私には、不器用の告白が実際に渋いなどということは、どんなSFより現実感がない。

不器用が渋いだって? あり得ないだろう。不器用なんだから。
蛇足を地で行くように、このエントリも不器用に終わる。

タイヤ交換

Michelin Pro 3 Raceはうっとりするくらい軽いタイヤだが、サイドが弱い。性能と接地面に注力し、他所のあらゆる頑丈を犠牲にした、そんな印象を受けるストイックなタイヤである。Pro 2 Raceはそんなことなかった。もちろん初代Pro Raceも。初めてPro 3 Raceを手に持ったとき、タイヤがこんなに軽くなるものかと思ったが、その代償は大きかった。

そして来春、Pro 4 Raceが市場に出るという。新しいモデルは同グレードで4種類あり、ホビーユースから決戦用という風に分かれている。決戦用は、やっぱりサイドが弱いんじゃないか、そんな憶測さえしてしまう。

それでも私は初代からPro Raceを使ってきたファンである。ニューモデルを買うつもりで楽しみに待っていたが、先日、春の訪れを待たずして現役のPro 3 Raceが力尽きた。少し荒れたアスファルトに乗ったら、あっさり裂けたのだ。同じ現象はビワイチ以来、2回目。

一方、同じように使っているMichelin LITHION 2は衰える気配もない。重い分だけ頑丈なのだから当然かもしれないが、この安定感はそのまま安心感になる。あまつさえレースに出ない私にはLITHIONクラスのタイヤで十分、また贅沢と言えよう。

それで、Pro 3 Raceに代わりLITHION 2を……と思ったものの、その性能は既に証明済みである。お店に欲しいカラーもなかったので、Vittoria RUBINO PRO 3をチョイス。LITHIONと同等の性能を有すると評判らしい。

さてタイヤのカラーが変わるとバーテープの色が浮いてしまうので、これを黒に変更。ちなみにバーテープはずっとfi’zi:kを使っている。薄いから好きだ。最近は同じ色で素材違いが3種類もあるらしい。fi’zi:kのすごさはサドルだけじゃなかった。

RUBINO PRO 3の前評判が正しければ、来春のPro 4 Raceは見送ることになろう。もろもろの出費は予想外だったが、パーツ交換に戯れた一日は楽しかった。

法名碑

平たい石版に法名が刻んである。これを法名碑という。
先日の墓参りの折、霊園で、私はまだ新しい法名碑をたくさん見た。「法名碑」と刻まれた石版の左側がほとんど空欄だったので、まだ新しいと知れたのである。

建てられて間もない法名碑は、建てた本人であれ配偶者であれ子どもであれ父母であれ孫であれ兄弟姉妹であれ、彼らの法名が”確実に刻まれる予定”で屹立している。その目的において、これほど先見性を持った予定があるだろうか。

なるほど法名碑そのものは、改めて職人の手を借りるまでに物質的な寿命を迎えるかもしれない。しかし空欄の存在が未来の役割を担っている以上、法名碑はその空欄の限り目的を果たし続けるのだ。

………。
ところで、新しい法名碑にはこんな露骨な予言をさせておいて、建てた人間は、どんなにか今日を必死で生きていることだろう。

秋が深まるのは、まだこれからである。

フォントについて思うこと

ブログの引っ越しに伴い、デザインも変えた。
その際、色んなブラウザで見え方を検証したのだが、つくづくフォントに足を引っ張られた、その無念を書いてみる。

ウェブデザインの発展に貢献しているのがHTMLやCSSだとしたら、それを妨げているのが殿様ブラウザや殿様フォントだ。ここいう殿様とは、言うまでもなく寡占ブラウザ、寡占OSのことである。

ふつう、制作サイドでフォントを指定しても、ユーザーのPCに該当フォントがなければ、デフォルトの味気ないフォントに置き換えられることが多い。

フォントに頭を悩ませているのはDTPも同じことで、印刷所にないフォントは原則として本文ネームに使えない。タイトルや見出し程度ならアウトラインを取れば済む話だが、まるごとPDFでの入稿を受け付けてくれるところは少なく、危険もともなう。

ところが昨今、CSS3になって、ブラウザにフォントを読み込ませることが可能になった。
具体的には、使いたいフォントをサーバーにアップしておいて、ユーザー側のブラウザに読み込んでもらうのだ。

しかし問題がないわけではない。
モダンブラウザのインフラはもとより、日本語の場合、ブラウザ側でダウンロードするデータ量が多すぎるのだ。
日本語ならではの表現や美しさは日本語でしか成せないため、かなり残念。

ところでMicrosoftではvistaになって初めてメイリオというウェブ用フォントをOSに標準化させた。Appleでは何世代も前からシステムフォントにも気を使っていたというのに、MicrosoftはWeb2.0を過ぎてようやく適用させたのだ。

販売中止になりかけた、とある日本酒は、デザインを変えたことで世界中から注文が入るようになったという。
「大切なのは中身」などというのは本件では詭弁である。表現は中身の実態なのだから、当然それは等価でなくてはならない。

デジタルがアナログに追いつく日はくるのだろうか。

自転車乗りの餞別

友人Sの米国留学が決まった。普段はあまり会わないくせに、海外と聞いた途端、ちょっと酒でも飲もうかという流れになるのだから、くされ縁とは不思議なものだ。

Sは高校に入ってはじめての友人で、誕生日が同じという偶然もあり、よく話した。旅行もした。旅行をしたとき、Sに宿の手配を頼んだら、勝手に高い部屋を予約しやがった。その言い草が「一番安い部屋は予約しづらかった」というのだから、金持ちの感覚は分からない。私立高校だったから、周りは金持ちが多かったのだ。

価値観の違いでイライラすることもさせることもあった。私がそんな感情を表に出しながら、なおかつ交歓が継続するのも珍しく、そうするとやはり大事な友ということになろう。それで、餞別を考えた。

Sとは自転車仲間でもあったので、私の専門分野で探すことにした。その結果が『ヒラメ・ポンプヘッド(横カム)』だ。何のパーツかというと、空気入れの先端部分。マニアックなパーツだが、ユーザーの誰もが頷く名品中の名品である。

ポンプヘッドに添えたのは、ゴムホースをとめる金属バンド。ショップに純製品がなかったのでホームセンターの水道管売り場で購入した。ゴムホースを通し、マイナスドライバーで締め込む。高圧を入れるロードバイクゆえ、バンドにもそれなりの固定力が必要なのだ。

空気入れの先端部分だけを交換するなんて、と思うかもしれない。既存の製品でも、不満なく空気が入るのだ。
しかし、これ(通称ヒラメ)を知れば使うたびに感嘆する。ユーザーだけが分かる贅沢品。嗜好品。祝いの品に、我ながら良いチョイスだったと自賛している。

元気でな、S。